あの人が卒業してから2年目の春。
長屋へ向かう新入生の列に、目を奪われた。
見慣れた深縹色の髪が、風になびく。
井桁の真新しい着物に身を包んだ小柄な少年。
その顔は、まるであの人と同じ。
「滝夜叉丸~?どうしたの?」
喜八郎の間延びした問いに、少年を指差す。
すると。
「おお!小さな七松小平太がいる!」
「じゃあ、私の幻覚じゃないんだな。」
「当たり前ー」
恋しすぎておかしくなったのかと思った。
卒業してから、会える回数は激減したから。
それでも、会えるだけ幸せだ。
まだ丸い頬を膨らませ、満面の笑みで同級生と歩く少年に自然と笑みが浮かぶ。
「おーおー。にやけちゃって、七松先輩に知られたら妬いちゃうんじゃない?」
「にやけてなどいない、下級生は可愛いだろう?」
「そうそう、私の滝夜叉丸に限って浮気はない!」
いきなり背後から聞こえてきた明るい声に、私も喜八郎もビクリと肩をすくませた。
「な、七松先輩!!!」
「おや、まあ!」
驚いて振り返ると、以前と変わらぬ太陽のような笑顔。
少し髪が短くなって、逞しさが増した気がする。
大人びて丸みをなくした精悍な顔は、日に焼けていた。
「い、いらっしゃるなら!先に連絡ぐらい・・・・」
駄目だ、怒りたいのに顔がにやけてしまう。
嬉しい、ただ、嬉しい。
込み上げるこの想いは、私だけではありませんよね?
強い眼差しを見上げれば、その顔がぐっと近付いた。
「今日はゆっくり出来るんだ・・・。この日の為にがんばったんだぞ!」
胸を張り、自慢げに鼻を膨らませた小平太の性格はなんら変わりは無い。
それがまた嬉しくてたまらない。
「じゃあ、お邪魔虫はターコの様子でも見てきましょう~。」
「お、悪いな喜八郎!」
「・・・・・・・・・・・・悪いと思って無いくせに。」
「何か言ったか?喜八郎?」
「何も?あ、そう言えば今年の一年に、小さい七松小平太がいるんですよ。」
喜八郎が指差した先を見る前に、小平太は手を上げた。
「おーい!小次郎!」
「え?知り合い?」
珍しく目を丸めた喜八郎が、私を振り返るが私だって知らない。
首を振って答えると、喜八郎はターコの事も忘れて『小次郎』と呼ばれた少年を見つめた。
「あ!あにうえー!」
小平太の声に満面の笑みで応えた『小次郎』は、嬉しそうにこちらに駆け寄る。
「あ、あにうえ?」
「そうだ、俺の弟だ!小次郎、こっちが6年生の平滝夜叉丸でこっちが綾部喜八郎。」
小平太の指先を追い、私と喜八郎の顔を交互に見つめた後可愛らしい笑顔で頭を下げた。
「初めまして、平滝夜叉丸先輩と綾部きっぱちろう先輩。私は、七松小次郎です!」
「「きっぱちろう」」
思わず吹き出してしまった!
きっぱちろうは、初めて聞いた間違いだ。
当の喜八郎は、名前を間違われたというのにあいかわらずの無表情。
何を考えているのか。
「小次郎、きっぱちろうではない。喜八郎だ。失礼だぞ!」
小平太の叱責に肩をすくめるも、全くめげていない顔でもう一度口を開く。
「あ、綾部きぱちろう先輩!」
分かった、前歯の乳歯が抜けている事を隠そうとするから言えないんだ。
なんとも可愛い小次郎の恥じらいに、顔がにやけて仕方ない。
兄弟とはいえ、こんなにも似ていることがいけないんだ。
七松先輩に見えて、愛しさが倍増してしまう。
「きぱちろうね・・・・・いいね。お前さんだけはきっぱちろうでも怒らないよ。」
喜八郎は面白そうに笑い、小次郎の頭を撫でた。
顔を真っ赤に染めて俯く小次郎。
その姿はまるで、恋する乙女のようだ。
もしかして、小次郎は喜八郎に?
隣で腕を組む先輩の袖をそっと引いて、その耳を引き寄せた。
「先輩、もしかして小次郎は喜八郎に・・・」
「どうやら一目ぼれのようだなぁ。さすが私の弟!大胆な所に目を付ける。」
大胆な・・・・うん、そうですね。
大胆です、大変大胆です。
「こらー。七松!列を離れるな!」
土井先生の怒鳴り声に飛び上がった小次郎は、私と喜八郎、そして七松先輩にきちんと頭を下げて駆け出した。
「頑張れよ小次郎!」
「はい!兄上!」
にっこりと一度振り返り、先を行く同級生を追っていく。
「楽しみが増えたね。」
微笑む喜八郎。
「きぱちろう、お前年々仙蔵に似てくるな。」
わしわしと無遠慮に頭を撫でる先輩の手を払い、喜八郎は愛用の鋤を肩に担いで歩き出す。
「そう呼んでいいのは、小次郎だけです。先輩はだーめ。」
じゃあね、と手を振り背を向けた喜八郎。
「何だかんだで、あいつ小次郎の事気に入ったようですよ。」
「だな。」
にっと嬉しそうに笑う先輩に、懐かしい気持ちが込み上げてくる。
「滝、小次郎はちゃんと体育委員で面倒見てくれよ?作法に入られちゃ堪らんぞ!」
作法委員長の喜八郎に惚れた小次郎、兄の勧めよりも恋に走ってしまうかもしれない。
兄譲りの、いけいけどんどーん!で。
「でも塹壕堀は上達する事は請け合いですよ?」
体育だろうが作法だろうが、今では塹壕掘りは共同でやる事が多い。
もちろん作法委員長が喜八郎だからだ。
しかし。
「いや、小次郎には私からある任務を言い渡しているんだ!だから絶対に体育でなくては困る!」
「に、任務・・・ですか?」
訝しげに問いかければ、先輩はにやりとほくそ笑む。
私の耳に唇を寄せて、その極秘任務の内容をそっと囁いた。
「滝夜叉姫を、不埒な輩から守れ!てな。」
姫?
私を守れ?
「あ、今馬鹿にした?」
むぅっと唇を尖らせた先輩が、鋭く突く。
「だって、不埒な輩って・・・」
「滝は自分に寄せられる好意に鈍感だからね。小次郎がいるだけで牽制になるんだよ。」
確かにあれだけそっくりなら、先輩を知っているものから見れば驚くだろう。
しかし。
「姫は無いでしょう・・・・・・・。」
「そうかぁ?滝は姫って感じだよ。綺麗だし、上品だし。」
先輩の口からそう言われれば、素直に嬉しい。
だが小次郎に守られるほど軟ではないつもりだ。
「まぁそんなに気にするな!小次郎はあくまでお守りだからね。」
お守りか。
そう聞くと、何だか可愛らしい。
ふふっと微笑む私を抱き寄せ、甘い声が身を震わせた。
「私がお前をさらいに来るまでの辛抱だからね。我慢しておくれ。」
その言葉がむずがゆい。
「ちゃんとさらって行って下さいね。」
抱きしめる腕に身を任せ、そっと寄り添う。
「もちろん!滝が卒業すると同時に迎えに来るよ。待ち遠しくて仕方ない。」
「私もです。」
この人は私を酔わすのが上手い。
甘い口付けで、溶けてしまいそうだ。
「今日はゆっくり出来るんですよね?」
口付けの合間、必死に言葉を紡げばいっそう深さを増した愛撫。
巧みな舌が憎らしいほど、この身を焦がす。
「うん、だから今夜はたっぷり滝夜叉丸を可愛がってあげるよ。」
艶のある声が耳朶を震わす。
ああ、私は本当にこの人に惚れている。
心底惚れきっているんだ。
逞しい背に腕を回し、誘い文句の答えにした。
「愛しい愛しい滝夜叉丸。」
久しぶりの逢瀬に、目が眩む。
「会いたかった・・・。」
「私もです・・・・・。」
切なく吐き出された、短い本音。
どれ程胸を震わせたか、きっとこの人は知らない。
「好きです、七松先輩。」
後日。
体育委員会活動日。
初めて一年生が入ってくるこの日。
案の定、三之助と四郎兵衛、金吾は目を丸くしていた。
「な、七松先輩・・・・小さい七松先輩がいますよ!た、た、滝夜叉丸先輩!」
落ち着けよ、金吾。
嫌そうに顔を歪めた三之助が、ふいっとそっぽを向く。
後輩相手に何を考えているのか?
四郎兵衛、小次郎は珍獣じゃないぞ。
そんなぶしつけな視線は止めなさい。
「七松小次郎です!よろしくお願いします!」
にっこり笑い、お辞儀したその姿は本当に愛らしい。
礼儀正しいその振る舞いが、何故か誇らしいのは親心だろうか?
しかし一人微笑む私の耳に、とんでもない一言が飛び込んできた。
「私は!滝夜叉姫を不埒な輩からお守りする為に、体育委員会に入りました!!!」
げっと引きつる三之助と、金吾。
ただただ驚いて声も出ない四郎兵衛。
そして。
あまりの衝撃に立ち上がれない私。
今年の体育委員は、非常に問題ありだ!